2014年3月28日金曜日

根古屋城跡を歩く

小手指駅から早稲田/宮前方面行きバスに乗り狭山湖入口で下車した。そこから目的地までは徒歩で約30~40分であった。
待合せの6号扉入口に着くと、既に東京都水道局の方2名と、所沢市文化財保護課の3名の方は到着していた。
根古屋城跡は、狭山湖北岸にあり、現在、東京都水道局の管理下にあることから通常は中に入れない。今回は東京都水道局のご理解とご協力の下で、特別に見学することが出来た。
水道局の方の話では、一般の人がここに入るのは昭和53年以来のことだとのこと。
【上図は所沢市史より抜粋・加工しています】
土塁、空堀、土橋などは素人の私が観てもそれとわかる。また、本郭、ニの郭、東郭、腰郭などは概略図と照らし合わせて歩いたが、それぞれの場所の保存状態は非常に良好であった。これも人がやたらと入らなかったからであろう。
根古屋城は、所沢市大字勝楽寺字根古屋に所在した城である。根古屋とは寝小屋の意で、各地にこの地名が残されており、山城の麓にある集落にこの名が付けられている。城主やその家臣らが平常はここに(麓にある集落)居住し、有事の際には山城に籠るようになっていた。後に、山麓の根古屋の名称が城名となったのである。
この城は、「山口氏系図」によると、山口小太郎高忠が明徳・応永のころ(1390~1428)築城したとしている。山口氏は山口城を居館としてきたが、戦乱の際に避難する山城の必要性を感じてここに築城したものと考えられる。

☆栗原仲道の所沢の城跡・館跡」では以下のように記している。
根古屋城跡(別名竜谷城)は柳瀬川の上流所沢市上山口狭山湖(旧勝楽寺村)の北岸、湖面よりの標高差30メートルほどの丘陵上にある。南北に長く、本丸と二の丸が連結した形をしている。城跡の規模は、東西220㍍、南北220㍍の卵形で、総面積約4万8,400平方㍍であることがわかった。その周囲は空掘りによって囲まれていて、よく旧態を残している。
根古屋城は、構造は単純であるが本丸・二の丸を囲む空掘りの広さと深さには圧倒される観がある。これは後北条氏の改修によるものであって、当時の鉄砲の射程距離を考慮に入れた築城法だったということである。根古屋城は根小屋ともいい、平時においては武士は山麓の聚落に住み、戦時になると山上の城に立て篭もったのである。山麓の住居を根小屋といい、後にこれが城名ともなったのである。
根古屋城は山口氏の系図によれば明徳・応永の頃(13901427)山口小太郎高忠によって築かれている。当時は竜谷城と呼ばれた。竜谷城は要害城の「なまり」との説がある。高忠は応安元年(1368)の平一揆の乱に前後して亡くなった山口三河守高実の玄孫で山口平内左衛門高清の孫に当る人物である。平一揆の乱に前後して戦で蒙った傷跡も、その後足利の家臣上杉氏に仕えることになり、高忠の代にはすでに癒えて竜谷城を築くまでに回復していたのであろう。しかし、高忠から五代目の高泰までは山口氏は安泰であったが、六代目主膳正高種の代に至り、北条氏康との戦いに上杉方として出陣したため、敗れて竜谷城は焼失し、高種の子高俊(下総守)と孫の大膳高伯は北条氏に帰属することになった。そして高伯は小田原城落城後徳川家に仕えて旗本になったが、慶長12年(1607)3月12日宗岡(志木市)にて荒井但馬守と争い斬り死にをした。遺体は久米永源寺に葬ったというが、永源寺には高伯の墓はない。所沢市には岩崎の瑞岩寺に三河守高実と山口平内左衛門高清の墓石が残っている。
☆写真と撮影位置
 




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